包心演技

By: Herry Lawford

どのような状態であって、何をしなければならず、何をしてはいけないのか。

それぞれ個々人の問題であっても、外因的要素や常識的に強制される問題によって、自ずと行動が制限される事になる。また、起因する原因が大きければ大きいほど、それらの強制力は増す事にもなる。

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仮に親が死んだとして、ずっと昔の基準で考えれば、向こう数年間は喪に服さなければならない事になる。もしかしたら、今でものそれに準拠している人もあるのかもしれない。

By: Elvert Barnes

この時に、大笑いしたり、買い物したり、とにかく喪に服す以外の何かをすれば、外野は騒ぎ立てることだろう。これはまるで強制的な謹慎処分を履行しているかのような状態のようだ。

字のごとく、得体のしれないものによる束縛はたくさんあって、そもそも自由など無い。けれど、同様に、誰が決めたのか、時代によってそれらも変わっていく。

通常の生活や労働をするとなれば、向こう数年間も喪に服す事など実際にはできない。黒装束に身をまとい、笑顔を見せることなく活動的に何かをすることなどできないし、そのようなものは不要だからだ。

By: Brett Neilson

どうやら最近では1年間程度とされ、それも賀状程度のものに制限されるようだ。それぞれのつながりも薄く、忙しい現代人は、それらを正しく個々に管理することなどできず、機械的に一斉に送信するし、受け取った事に腹をたてることさえ許されないのかもしれない。

その範囲もどんどん狭まってきているようで、同居しているか否かやどれほど親しい関係にあったかなどを考慮して自分たちで制限を緩和しようとする趣さえあるようだ。

だが、実際にはそのような重い雰囲気でずっと過ごすことなどできるわけもなく、あくまで真摯に受け止め弔う事が大切であるというような本質を正しく履行していれば、本来は問題ないはずだ。内情を知らずして何らかの指摘をすることなど、日本人の悪いところであるのかもしれない。

それに、長い間そのような気持ちで過ごしたのなら、何らかの病を発症してしまうのではないだろうか。むしろそのほうが長く生きなければならないことを考えれば問題であるけれど、このタイミングで精神的に止んだと思われたなら、許されるから面白いものだ。

By: Larry Johnson

通常そのような状態になれば、やれ甘えだの何だの言われるだろうから。それに、問題が大きければ大きいほど同情票を得ることが可能になり、結果として何らかのマイナス要因は権利化していってしまうのも日本のよろしくないところだとも思える。

最終的には、沈痛な面持ちであることより、そのように振る舞うことで被害者として周囲に認識させ、これを権利として行使しようとすることになるし、もし、それに反対しようものなら、反対したものは良識を疑うとして非難されることになる。話の挿げ替えのような、良心に付け込んだようなものだ。

By: Angela Vincent

逆に、自分を律して、奮い立たせようとするものがあれば、どうやら通常と違うとして問題視されるかもしれない。上手く立ちまわることができれば「強い人」として賛同を得ることができるが、そうできなかった場合は「非情な人間」としてレッテルを貼られるかもしれない。

もし、そのような状態になったとしても、外部に見せなければならないものと区別して、本心を言え、通常の状態だとか、笑うことなどして自分を保てるようになれる人が1つ2つ居れば、それで良いと思う。

実際は、それもまた難しいのだけれど。少なくとも、自分がその相手に選ばれたとしたら、それは嬉しいと思うだろう。

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